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「うち」と「そと」

全ての人にとって「お母さん」はいる。けれど、この瞬間「子育て真っ只中のお母さん」をしている人は全人口のほんの数%しかいない。自分が「お母さん」を体験して感じたことは、日本ではまだまだ肩身の狭い生き方を強いられる存在で、毎日があまりにも慌ただしく過ぎてしまうため、その期間が大変だったことも次第に薄れて忘れてしまうということだ。記憶が新しいうちに、お母さんとしての想いを書き残すことの大切さを感じて、この記事を書こうと決めた。

ここ数年、家に籠ることの精神に与える影響が注目されるているが、自分は初めて妊娠した13年前に巣篭もりできる「うち」の確保がいかに重要か思い知った。お母さんになる前の妊娠中から、お腹の子を守るため、自分を守るために外出規制が余儀なくされる。生まれてしばらくは免疫のない赤ちゃんを外に出してはならないと言われ、1ヶ月ほどは外出を控えるように言われる。まともに歩けるようになる1歳くらいまでの期間は、外出が非常に大変だ。「うち」に居ても休む間もなく赤ちゃんのお世話をしなければならないのだが、ふとした瞬間に見る庭の草花や、窓から差し込む日差しの柔らかさ、窓越しに流れる雲、木の匂いと肌触り、何気ない日常の仕掛けに心を癒されながら、日々を乗り切ってきた。

 

 子供との時間、家族との時間を大切にしたいから、私は自分の家を設計した。

 自分がここで過ごしたいと思う「うち」をつくった。

 人が大切な時間を過ごすための家。決して家のための時間や人であってはならない。

 取材の依頼は自身の設計した作品の評価として、ありがたく承諾した。

 そして共感してくれる視聴者の方から、個人宅の依頼をいただくこともあった。

 

けれど、我が家の場合、だんだんと「家」が強い存在を持ちすぎて、住んでいる自分たちの「うち」ではない気すらしてきた。家族のための家のはずが、家に振り回されるジレンマに苦しんんだ。

このまま、この「うち」と同じような家を作り続けることが自分の目指したことなのか、わからなくなってきた。

 

それが、中学生になった息子の「一級建築士の母親の息子としてではなく、自分自身のやったことで有名になりたい」という言葉で、ふっと楽になった。取材も、自分の「うち」ではなく、設計させていただいたお宅に受けていただくことで、施主にも喜んでもらえ、私自身の心の負担も軽く、視聴者にとって必要な知識を正しく伝える監修という立場に立つことができた。

今年のお正月には、久しぶりに甥っ子や姪っ子たちと集まり、みんな揃って缶蹴りをした。ついこないだまで、ヨチヨチ歩きだったはずの甥っ子はあっという間に高校生になり、部活で鍛え上げた体で追いかけられると、必死で逃げても追いつかれてしまう。子育てとは、ほんの一瞬の出来事であり、日々の経験は記憶として定着する前に常にアップデートされるので、振り返ってもうろ覚えだ。

外「そと」にも私の「うち」と同じような場所があって、みんなが気軽に出入りできれば、それがいいのかもしれない。それは必ずしも家という機能じゃなくてもいいのかもしれない。公園やあそびば、集会所、子育て支援センター、学童保育所、お店など、第3の居場所と呼ばれる空間なのかもしれない。そこをデザインしていった方が、私のやってきたことを活かせるのかもしれない。1人になるための「うち」ではなく、そこに人がいるともっと楽しくなる場所をつくればいいのかもしれない。

そんなわけで、少しずつ「そと」に向けて活動範囲を広げるための準備をしていこうと思う。